
第二部のトークイベントでは、フィールドレコーディングを入口として、音楽、映画、録音、そして「聴く」という行為そのものについて、佐々木敦氏、虹釜太郎氏、柳沢英輔氏の3人が、それぞれの経験や作品を持ち寄りながら語り合った。
かつて現地録音と呼ばれていた音の記録から、日常では意識されない音を捉える試み、映画のなかで鳴っている音への気づきまで、話題はさまざまな方向へと広がっていった。そこで繰り返し浮かび上がってきたのは、何を録音するのか、録音された音をどう聴くのか、そして、それを音楽や作品としてどのように捉えるのかという問いだった。

話の出発点となったのは、1990年代に渋谷に存在したレコード店「パリぺキン・レコーズ」で扱われていた、「現地録音」と呼ばれる音源だった。
現在ではフィールドレコーディングという言葉で括られるものも、当時から一つの音楽ジャンルとして整理されていたわけではない。現実の音を記録すること、その音を作品として提示すること、あるいは録音した音を音楽制作の素材として使うこと。それぞれの実践は重なり合いながらも、必ずしも同じものではなかった。パリぺキンで扱われていた作品のなかでも、特に記憶に残るものとして、Ghédalia Tazartèsの『Check Point Charlie』やC.W. Vrtacekの『Days of Grace』が話題に上った。既存のジャンルや音楽の分類だけでは捉えきれない作品に出会えることも、この店の魅力だったという。
パリぺキンは、単に好みの音楽を探す場所というよりも、それまで知らなかった音や、簡単には分類できない作品に触れる場所でもあった。こうした経験を振り返ることから、現地録音やフィールドレコーディングをめぐる話が始まった。

佐々木敦氏からは、フィールドレコーディングの歴史的な流れについて話があった。自然のなかへ出かけ、その場所で鳴っている音を録音し、それ自体を作品として提示する。こうした実践は以前からあったが、かつては音楽作品というよりも、記録やドキュメントとして捉えられることが多かったという。
一方、録音された音を音楽制作の素材として扱う方法もある。音をコラージュしたり、演奏と組み合わせたりするなど、録音は音楽をつくるための手段としても用いられてきた。1980年代には、Fairlight CMIのようなサンプリング機材が登場し、録音した音を電子音楽の素材として扱う方法も広がっていった。
ただし、現実の音を記録することと、録音した音を音楽の素材として利用することは、歴史的にも区別して考える必要がある。前者では、ある場所で何が起きているのか、その音をどのように記録するのかが問題になる。一方、後者では、録音された音をどのように加工し、ほかの音と組み合わせ、作品を構成するのかという関心が加わる。また、マイクや録音技術の発達によって、人間の耳だけでは捉えにくい音も記録できるようになった。コンタクトマイクなどを使えば、物体の振動や、普段は意識することのない音にも耳を向けることができる。録音技術は、すでに存在する音を記録するだけでなく、何を音として捉えるのかという範囲にも関わっている。こうした録音の方法や対象についての話は、1990年代に現地録音の実践を続けていた角田俊也氏へと移っていった。

虹釜太郎氏は、パリぺキンにも通っていた角田俊也氏が制作していたカセットマガジン「月刊現地録音」に触れた。話のなかでは、角田氏が店内に自作のマイクを設置して録音していたことや、ラジオ体操のような身近な音、人々の何気ない会話なども録音の対象にしていたことが振り返られた。特別な音を探しに出かけるだけではなく、身近な場所で鳴っている音にも目を向ける。こうしたエピソードからは、録音の対象が必ずしも珍しい音や、特別な環境に限られていなかったことがうかがえる。
さらに、佐々木敦氏や柳沢英輔氏も交えた話のなかで、角田氏の作品『The Temple Recording』が紹介された。
この作品に関連して取り上げられたのが、角田氏の「こめかみ録音」と呼ばれる試みである。角田氏は、超小型のエアーマイクを仕込んだ聴診器を自分のこめかみにセットし、ある場所の風景に向き合いながら録音を行っている。マイクは周囲の音だけでなく、筋肉や血流の振動、風が頭部を吹き抜ける音なども拾う。さらに、この方法では、もう一人の人物のこめかみにも聴診器マイクをセットし、二人で並んで同じ風景に向き合いながら録音する。角田氏は、景勝地に限らず、散らかった机の上であっても、意識を向けることで風景になり得ると考えている。
二人が同じ場所に向き合っていても、それぞれがどのような体験をしているのかを完全に確かめることはできない。それでも、二人が一緒に風景に向き合ったことは事実として残る。録音は、場所で鳴っている音の記録にとどまらず、その場所に向き合った人の経験とも関わっている。
また、この作品には、二人のこめかみに設置したマイクを左右のチャンネルに用いる、ステレオ音響の実験という側面もある。通常のステレオ録音では、同種のマイクを二本用いて空間の広がりを捉えるが、ここでは二人それぞれの身体を通して得られた音を組み合わせている。客観的な空間情報を記録するという一般的なステレオ録音とは異なり、二人でステレオ定位をつくること自体が、この試みの重要な要素となっている。
『The Temple Recording』は、場所で鳴っている音を記録するだけでなく、録音する人の身体や意識、他者とともに風景に向き合う経験までを、音響として捉えようとする試みとして紹介された。

柳沢英輔氏は、自身の近作『Voices of Memu』を取り上げた。
北海道東部、十勝南部の大樹町にあるmemuを拠点としたフィールドレコーディング作品で、2021年から2022年にかけて、冬から春にかけての時期に周辺のさまざまな場所で録音を行った。収録されているのは、森林や川、海岸などの環境音だけではない。その土地で暮らす人々にも話を聞き、日々の生活のなかで、どのような音をどのように聴いているのかを記録している。環境音と人々の声を切り分けず、一つの土地の音として捉えていることが、この作品の特徴となっている。
トークでは、録音場所の一つであるトーチカも紹介された。戦時中につくられたコンクリート製の構造物に、自作のエオリアン・ハープを設置し、風が吹き込むことで音が鳴る仕掛けをつくった。ハープの内部にはマイクを入れ、風によって生まれる音を録音している。さらに、雨の日にはトーチカの天井から水滴が落ちる音など、当初は意図していなかった音も記録された。場所の構造や天候、そこで起こる偶然の出来事が重なり、録音される音を形づくっていく。
人々の語りを録音することについても話が広がった。インタビューでは、言葉の内容だけでなく、声の質感や話し方、言葉と言葉の間にあるものも記録される。文字に起こせば話の内容を残すことはできるが、声そのものが伝える生々しさまでを文字で再現するのは難しい。また、言葉の意味が分からなくても、声を音として聴くことはできる。一方で、話している人やその土地の背景を知ることで、録音された音への理解が深まることもある。声を言葉の内容だけで捉えるのか、それとも音として聴くのか。両者は対立するものではなく、同じ録音のなかに共存している。

こうした声と環境音の関係から、トークではリュック・フェラーリの作品にも話が及んだ。フェラーリの作品群のなかで話題に関連するものとして、『Cycle des souvenirs』や『Far-West News』が挙げられる。声や語り、環境音などを組み合わせ、日常の断片や旅の経験を音として構成するフェラーリの作品は、現実の音をどのように記録し、聴き手に伝えるかという問題とも関わっている。
現実の音を記録するだけでなく、声を含むさまざまな音を通して、場所や時間をどのように作品として伝えるか。その問いは、『Voices of Memu』にも通じるものがある。

虹釜太郎氏が初めてフィールドレコーディングをしたのは、大学1年生のときに訪れたタイだった。普通のカセットレコーダーで植物園などの音を録り、帰国後、ホテルで録音を聴き返したところ、その場では記憶していなかった女性の声が入っていたという。録音したときには意識していなかった音が、後から聴くことで浮かび上がってくる。この経験は、自分の耳が周囲の音をどれほど聞き逃しているのかを実感するきっかけになった。
その後、映画監督の堀禎一氏が手がけた『夏の娘たち』(2017年)の音響作業に関わることになる。ダビングスタジオを使わずに映画の音を仕上げることになり、足りない音を補うため、街や公園へ録音に出かけた。街角で人々の会話を録ったり、公園で子どもたちの声が聞こえてくるのを待ったりする。しかし、思うような音が録れるとは限らない。何度も現場に足を運び、録音を繰り返す作業は1か月ほど続き、虹釜氏にとっては苦労の多い経験だったという。
一方、この作業を通じて堀監督自身もフィールドレコーディングに関心を持つようになった。虹釜氏は、堀監督から送られてきた『天竜区』シリーズ(2014〜2017年)にも触れた。山あいの地域を舞台に、人々の暮らしや風景を捉えたドキュメンタリーで、土地の様子を見つめるその映画のあり方に、フィールドレコーディングとのつながりを感じたという。
映画の音響作業を経験して、虹釜氏は、自分がこれまで映画を観ながら、音を十分に聴いてこなかったことにも気づいた。俳優の演技や物語について語ることはできても、環境音や虫の声など、映画のなかで鳴っている音がどのような役割を果たしているかは、意識しなければ見過ごしてしまう。映画では、映像や物語に注意が向きやすい。一方、音は画面に映るものを補う役割として受け取られ、個々の音がどのように鳴り、どのように場面を形づくっているのかは、必ずしも意識されない。録音の現場で音と向き合った経験は、虹釜氏にとって、フィールドレコーディングだけでなく、映画そのものの見方を問い直すきっかけにもなった。
このように考えると、映画の音を録ることと、フィールドレコーディングによって環境の音を記録することには、共通する部分がある。どちらも、普段は意識していない音に注意を向け、その音がどのような場所や状況のなかで鳴っているのかを捉え直す行為として考えられる。

日常の音や環境音を録音することに加え、録音の方法によって、それまで意識されていなかった音を捉える試みも話題となった。その例として紹介されたのが、David DUNNの活動である。
デビッド・ダンは、自然界の音や生物が発する音を録音し、生体音響学(bioacoustics)にも関わってきた人物として知られている。昆虫など、人間には普段ほとんど聞こえない音を対象にすることで、私たちが音として認識している範囲そのものを問い直している。
たとえば、木の内部にいるキクイムシの音を録音するには、普段の生活で使う録音機材だけでは難しい。自作のマイクやプローブを使い、身近な道具を組み合わせて録音装置をつくる。マイクのつくり方そのものも公開されているという。
ここで重要なのは、高価な録音機材を使うことよりも、どうすれば普段は聴こえない音を聴けるようになるのか、という発想にある。録音機材は、すでに存在する音を記録するための道具であると同時に、それまで認識できなかった音の存在に気づくための手段にもなる。このような実践は、音を音楽という枠組みだけで捉えることの難しさにもつながっていく。トークでは、サウンド・アートについても話題に上った。佐々木敦氏は、美術の領域において音がどのように位置づけられてきたかという視点から、サウンド・アートに触れた。
音を作品として扱うことは、何を音楽と呼ぶのかという問題だけでなく、音をどのような表現として捉えるのかという問いにも関わっている。ただし、録音された環境音を作品として提示することと、サウンド・アートという言葉ですべてを括ることは同じではない。音を音楽だけに限定せず、さまざまな表現の可能性から捉える視点として、ここでは触れておきたい。
こうした話題から見えてくるのは、音を録音することが、単に音を保存するための行為ではないということでもある。何を音として認識し、どこに注意を向け、どのように聴き手に提示するのか。録音の方法や作品のあり方によって、音との向き合い方も変わってくる。

フィールドレコーディングや環境音を使った作品について、しばしば問われるのが、「これは音楽なのか」「どうやって楽しめばいいのか」ということだ。
佐々木敦氏は、青山真治監督のドキュメンタリー映画『AA』(2006年)にまつわるエピソードを紹介した。音楽批評家・間章の足跡を追ったこの映画で、佐々木氏は、間章に会ったことのない音楽批評家としてインタビューに出演している。当時、佐々木氏はフィールドレコーディングや、ほとんど音らしい音が入っていないような作品も取り上げていた。そのインタビューのなかで、音楽批評家の大里俊晴氏から、部屋の空調を指して「今ここで鳴っている空調の音をCDに録音したら、これって音楽なんですか」と尋ねられたという。
日常の音を録音し、作品としてCDで発表することはできる。しかし、それを音楽と呼ぶのか、どのように聴けばよいのかという問いは、簡単には解決しない。

この問いに対して、柳沢英輔氏は、フィールドレコーディングを必ずしも音楽として聴く必要はなく、音そのものを楽しめばよいのではないかと話した。一方、虹釜太郎氏は、熱心に聴き込むことだけが聴き方ではないと指摘する。何も感じなかったり、作品を受け入れられなかったりすることも、一つの反応として考えられる。
聴く人によって受け取り方は異なり、同じ音源でも、聴く状況やその人の経験によって違ったものとして響く。音楽として聴くことも、環境音として聴くこともできる。あるいは、特別な意味を見いだせないまま聴き終えることもある。フィールドレコーディングでは、実際に現場へ出向き、そこで何が起こるのかを待つことも重要になる。録音する人がすべてをコントロールできるわけではなく、天候や場所の構造、偶然入り込む音などが作品を形づくる。そうした音に耳を向ける経験は、普段は意識していない環境に気づくきっかけにもなる。
柳沢氏が話した、スマートフォンなどで身近な音を録音したり、音を地図上に配置する「サウンドマップ」をつくったりする活動も、周囲の音をあらためて聴くための方法といえる。特別な場所へ出かけなくても、日常のなかにある音を録音し、聴き返すことで、普段とは異なる聴き方に出会うことができる。ただし、音を聴くことに慣れた人たちのあいだでは共有できる面白さも、そうした知識や関心を持たない人には届かないことがある。佐々木氏は、共通理解のある場で作品を受け入れてもらうだけでなく、まったく予備知識のない人に、実験的な音楽や芸術をどう届けるかという課題にも触れた。
その意味で、実際に音を録り、聴き比べるワークショップには、普段とは異なる聴き方に出会う機会をつくる可能性がある。録音した音を聴くことを通じて、これまで気に留めなかった音に気づいたり、同じ音でも聴く状況によって印象が変わることを知ったりする。そうした経験は、音楽の専門的な知識がなくても始められる。
「これは音楽なのか」という問いに、ひとつの答えを出すことは難しい。音楽として聴く人もいれば、音そのものとして聴く人もいる。あるいは、何も感じないまま通り過ぎることもある。
フィールドレコーディングを通じて問われているのは、音楽の定義だけではない。私たちが何を音として受け取り、どのように耳を向けるのかということでもある。
現地録音という言葉が示すように、そこには、実際の場所で鳴っている音を記録するという出発点がある。しかし、録音された音は、その場所を離れ、別の時間や環境のなかで聴き直されることで、新たな意味を持つこともある。音を記録すること、作品として提示すること、そして聴くこと。それぞれの行為が重なり合うことで、音と私たちの関係も変わっていく。
フィールドレコーディングは、特定の音楽ジャンルや録音技法にとどまらず、普段は意識していない音に耳を向け、世界の聴こえ方を捉え直す実践として考えられる。